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2014年2月

奈良若草山焼きと奈良周遊 ~当麻寺編~

 蠟梅香る石光寺参詣で、中将姫伝説の「染の井」を見学したした私たちが次に目指したのは 中将姫伝説を語るに欠かすことが出来ないもう一つの古刹「当麻寺(たいまでら)」です。  

 当麻寺へは石光寺から、徒歩でも30分はかからないと云われますが、当麻寺への参道入口辺りでバスを降り、仁王門とも云われる東大門までの10分ほどは 門前通りらしい賑わいは全く無く しっとり落ち着いた雰囲気の家並みです。 
 両側に建ち並ぶ民家の佇まいは 福徳の神様 大黒さまや えびす様の守り瓦をいただいた築地塀の構えも 豪壮を堅持してるのでしょうか? 自然に囲まれた静けさの中で感嘆賛美の声が聞かれます。
 今にして思えばデジカメに収めてこなかった事が残念です。  

 当麻寺は七件もの国宝指定物がある古刹ですが、二上山の東麓の奈良では交通には少々不便な一番自然に囲まれた場所がらでしょうか、アクセスが少々悪く、訪れる人はまばらのようですが 排気ガスに汚される事も無く落ち着いた風情が保たれる事でしょう。
 
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 奈良は日本が国家として最初に形造られた大和朝廷があった処で日本史の原点です。 また日本の仏教のふるさとでもあります。

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当麻寺は、白鳳時代から天平時代(7~8世紀)創建と云われるだけに東大門両側の風雨にさらされた阿吽の仁王様の筋骨隆々、鋭い眼差しでのお出迎えに緊張してしまいます。

     料峭の阿吽厳しき仁王像

    冷まじや濁世睨んで仁王像

   
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  また、白鳳時代に造られた日本最古の梵鐘は見逃すわけにはいきません。  
当麻寺は、中将姫が剃髪された本堂、金堂、講堂のお堂がありますが、本堂(曼荼羅堂)には中将姫が織った曼荼羅がご本尊です。先に訪れた石光寺の井戸で蓮の茎を五色に染めた糸で中将姫が織ったと云われる曼荼羅は 傷みが激しく未公開ですが、室町時代再現された重要文化財の曼荼羅に 西方浄土へ導かれる願いを込めて拝観出来るだけでも感動いたします。

  中将姫伝説に就いて 詳しくは「http://bell.jp/pancho/kasihara_diary/chujyo-hime.htm 」をご覧頂くとして 次の概略をご一読いただければと存じます。  

 中将姫は奈良時代の名門の生まれです。5歳の時に母を失い継母に育てられますが、継子いじめに遭い14歳の時 ひばり山に捨てられてしまいます。
一度は父親のもとに戻りますが、17歳の時 当麻寺で剃髪し出家されました。
 生身の阿弥陀様を拝みたいと念じていたある時、「生身の阿弥陀様を拝みたいならば 蓮の茎から繊維を採って曼荼羅を織るが良い」と云う霊感を得て 彼方此方に蓮の茎を集めて糸を採り 石光寺の庭に井戸を掘って糸を浸したところ 五色に染まったと云われ、3束の藁と2升の油で灯りを付けて 9尺四方の糸繰り堂で、一節の竹を軸にして 一夜で1丈5尺(約4メートル四方)の当麻曼荼羅を織りあげました。
仏道に精進を続けた中将姫は29歳の若さで西方浄土に迎えられたと伝えられます。

  【小説家五木寛之さんが「大和のモナリザ」と讃える 中将姫像】     (上記IT掲載よりお借りしました)
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 当麻寺の曼荼羅にまつわる奈良時代の中将姫の『レジェンド』 知れば知るほど 今回の奈良の旅が叶った事に満足感を覚えます。

      導き観音蝋涙留めて春兆す

     麗しき余寒に中将姫の像

     古都奈良の姫の眼差し凍て果つる

     春浅き曼荼羅おろがむ八十路旅

 1泊2日の奈良の旅の回想録 
4回に亘ってお付き合いくださいまして有難うございました

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奈良若草山焼きと奈良周遊 ~石光寺編~

   山焼きを鎮めて夜来の雨上がる

 夜には雨と云う天気予報を見事にくつがえし 「お山焼き」を好天の夜空に恍惚と見納めて 心地よい深い眠りに着いた頃 天の神様は予報通り火消しの後始末をなさったのでした。

 しっとりと濡れた斑鳩の里を後にして 奈良周遊へと私たちのバスは奈良県は葛城市の「石光寺(せっこうじ)」へと向かいました。

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 石光寺の山号は慈雲山。ご本尊は阿弥陀如来さま。
飛鳥時代後期(白鳳期)に建てられた寺院ときいております。 天智天皇の時代に光りを放つ三つの大石があり 掘りだしてみると弥勒三尊の石像が現れたのがこの名の由来だそうです。

 中将姫伝説ゆかりのお寺さんであることと、今を盛りの「蠟梅」を愛でることが目的の参詣でもありました。
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石光寺はボタンの名所としても知られ、この時期に咲く藁帽子に包まれた寒牡丹が見られるはずでしたが、残念ながら「遅かりし由良之助!」
 寒牡丹は既に花は終わっており 役目を終えた藁苞が早春の景色の一役を演じているかのようでしたが 春雨にしっとり濡れた「蠟梅」が辺りに芳香を放ち この寺苑に華を添えておりました。

     咲き終えて藁苞さびしら寒牡丹

      蠟梅の曼荼羅に咲く寺苑かな

     蠟梅に小雨そぼ降る石光寺

     寒牡丹果て蠟梅明かりの石光寺

     蠟梅の中将姫の像匂ふ
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 石光寺には「染寺」の異名もある中将姫伝説に因んだお寺さんでもあるのです。
中将姫が曼荼羅を織るために 蓮の茎を集めて糸を採り、それを井戸水に浸したところ五色に染まり 桜の木に掛けて干したと云う伝説の「染の井」と「糸かけ桜」を目の当たりにした私たちは小雨の中での参詣に満足感さえ覚えたのでございます
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私たち女性にとっても興味深い中将姫に就いては 中将姫ゆかりの もう一つのお寺さん「当麻寺」編の次回に譲ります。 
 今日も旅のお付き合いありがとうございました。

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奈良若草山焼きと奈良周遊 ~若草山焼き編~

 奈良の若草山は芝生に覆われた三つ重ねの標高342メートルの山です。
古都奈良に早春を告げる伝統行事「お山焼き」は、毎年一月第四土曜日に開催されます。
(点火不能の場合は翌週に延期されます)

 若草山の山焼きの行事は、山に火を入れて山全体を燃やしてしまうと云う古都奈良の新年を飾る炎の祭礼ですが、元は近くの農民による野焼きの習慣で、山を焼く事に依って 新しく生えて来る草を田畑の肥草や家畜の飼料にしていたのが始まりらしいのです。
又、若草山にある鶯塚古墳の被葬者の鎮魂の為とか、この山を年が明けて一月頃までに焼かなければ不穏な事が起きてしまうと云う伝承で、通行人が放火して 東大寺境内まで延焼する事が再三おこったそうで、江戸時代末期頃に 若草山に隣接する東大寺・興福寺と奈良奉行所が立ちあって 山を焼く事になったとも云われます。又、世界平和を祈る思いが込められたり、山火事の予防や焼畑農業の様に土を肥沃にする目的だったり、諸説粉々です。

 何はともあれ、初めて見る「お山焼き」は、今宵のお宿 興福寺のライトアップされた五重塔が目と鼻の先 猿沢の池のほとりの古都奈良にふさわしい純和風「飛鳥荘」の屋上からの見学と成りました。

今年のこの日は珍しく例年にない温かさで穏やかな風の流れも程好い方角です。
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一月二十五日土曜日 夕闇迫る六時十五分 六百発とも云われる『奈良礼讃の大花火』が始まりました。 
凛とした冬空に艶やかに華やかに 尺玉の連発連射が十五分間 大いに魅了いたしました。

間髪入れず、六時三十分 山焼き一斉点火が始まると 風は順風 めらめらと山頂めざし燃え盛る様子が手に取るように臨めます。
 私たちは荘厳なお山を 
固唾を飲んで見守ったのでございます。
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 この模様を何と表現しましょうか? 
   言葉が見つかりません。

未熟なカメラ婆~ばの2分間ほどの動画をご覧下さい。

     ぬばたまの暗夜を焦がすお山焼き

     お山焼きを恍惚と見つ八十路旅

     いにしえの奈良の絵巻やお山焼き

     斑鳩の塔明々とお山焼き

     山焼いて奈良にそぼ降る小夜の雨

     お山焼きを鎮めて夜来の雨上がる

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奈良若草山焼きと奈良周遊 ~俳聖松尾芭蕉編~

 春を呼ぶ伝統の祭典 奈良若草山の山焼きがこの目で見られるなんて、、、
十日前に引き起こした怪我も日に日に回復してはおりますが、未だ鮮やかに残る
あごの皮下出血の紫母斑は ファンデーションやコンシーラの厚塗りでカヴァーして、誰にも見破られることなく 素知らぬ顔で一月二十五・六日 一泊二日の旅を楽しんでまいりました。

 里山に包まれた城下町 伊賀流忍者の発祥地、私たちにはどうしても訪ねたい 俳聖松尾芭蕉の生誕地に到着したのが午後一時でした。

 芭蕉翁を巡って先ずは「芭蕉翁記念館」へ、今年は芭蕉生誕370年とあって昨年から記念事業が展開されているようです。
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明るい館内には芭蕉直筆の名品がずらり、俳句、俳画、手紙、、、芭蕉の偉業を讃えました。

「芭蕉翁生家」は、伊賀上野赤坂町の通りにあり、格子構えの古い町家です。
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くぐり戸を入り 玄関から奥行きが深い土間には、竈(かまど)、厨(くりあ)箪笥、風呂場、厠(かわや)など 当時のままの生活様式が見られ、往時を偲びました。
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 昭和一桁生まれの私たちは口々に 「昔は 火起こしも大変だったのよねぇ~ トイレもこんなだったねぇ」 幼少時代の実生活にも似た雰囲気が懐かしくもありました。
  「古里や臍(へそ)のをに泣くとしのくれ」  
 漂泊の俳人と云われた芭蕉も 古里は忘れ難いもの 晩年の師走に旅立つ時に 
父母の慈愛を懐かしんで詠んだこの句に深く想いを馳せるものがありました。

 下の写真は芭蕉のお弟子さんのひとり 服部土芳の草庵で、庵開きのお祝いに芭蕉が贈った句  「蓑虫の音を聞に来よ草の庵」 に因んで名づけられた「蓑虫庵」 芭蕉ゆかりの五つの庵の中で 唯一残っている庵とされております。
 閑静な庭内に一歩足を踏み入れると、そこはもう侘び、寂の世界です。
 服部土芳はここで芭蕉翁の遺語を集めて「三冊子」を執筆したといわれます。

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 大寒の最中でも 珍しくこの日は早春の日和に恵まれ 小鳥のさえずりさえ聞え、往時を偲び 伊賀上野の町の雰囲気を楽しみながら 芭蕉ゆかりの地を巡り、奈良は 猿沢の池のほとりに佇む純日本の宿「飛鳥荘」に到着したのは日脚も伸び始めた四時頃でした。

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