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2009年3月

言い訳を聞いて下さい

パヴァロッティは自叙伝の中で 馬術大会でのコンサートの模様は、イタリアでテレビ中継されパヴァロッティが 「口パク」 であることは、四才の子供でも解かってしまったと思うと悔いておられます。

 「世界中のすべての新聞がこのスキャンダルを書いたと思います。 事実イタリアの新聞はこのスキャンダルを何日も書き立てました。 批判されて当然のことを私は犯しました。 私はコンサート界のO・J・シンプソンだったのですから。

有名になった代償は、間違いを犯したときには二倍以上に還ってくるのです。 聴衆はコンサートに出ている歌手の、その時の歌声を聞く権利を持っているのですが、私はコンサートではきちんとした歌声を聴いてもらおうとしました。   しかし一番大切なことはそう云う事ではなっかたのだと、 身に沁みて解りました。 一つだけ言い訳を聞いて下さい。」 と切なる思いで訴えております。

Photo  「クラシックのテノールコンサートと、今回の馬術大会でのポピュラーコンサートの趣旨とは、内容の違いだった事を新聞には書いて欲しかったのです。 書くと書かないとでは大きな違いがあります。 新聞にはコンサートの趣旨内容の違いをはっきりさせて欲しかったのです。 録音を使った事は確かに悪かった。 だが、私がクラシックのコンサートで、 「口パク」 をやったとしたら、銃殺されても仕方がないし、きっと翌日の新聞には私の死亡記事が載るのです。

あの時のあのコンサート自身はとても良かったのに、私の 「口パク」 のためにロックンロールのスター達のコンサートが見過ごされてしまったことは、誠に申し訳なく残念はことです。」 と。

 2006年トリノオリンピック開会式で 「トゥーランドット」 の 「誰も寝てはならぬ」 を朗々と歌い上げて開会式に花を添え、世界中のファンを唸らせたパヴァロッティの人生最後の大ステージを、彼の没後インターネットに公然と 『口パク説』 の記事が載っておりました。 追い討ちをかけるように、AP通信にオーケストラの音楽までも別の場所で録音されたものだったと。

そんな事はどうでも良いのです。 憂いを籠めて歌い上げるパヴァロッティの歌声こそ、私の信じるものですから、、、 

 自叙伝にクラシックコンサートで 「口パク」をやったとしたら、銃殺されても仕方がないと懺悔し、人目はばからず綴っております。

トリノオリンピック開会式あの時の動画(You Tubeより)を どうぞじっくりと ご視聴ください。 

 重病説が流れる人生最後の大舞台。 翌2007年9月6日パヴァロッティは惜しまれて天に召されました。

これが見納めになろうとは、、、  嗚呼!

     魂を歌に預けて月の舟

     (たましいをうたにあずけてつきのふね)

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事件の真相告白

 敬愛するルチアーノ・パヴァロッティの事は何でも知りたがっている私にとって、来るべき時がとうとう来てしまいました。

 アァ!  やっぱりあの事は本当だったのですね!

   あの信じられない事件とは、、、!

私の口からは決して洩らしてはいけないと思いつヽも、ご自身の著書 「パヴァロッティ マイ・ワールド」 で、本意を語っておられますので、心を鬼にして取り上げたいと思います。

 Photo  ’92年 第二回馬術大会でパヴァロッティは、もともとスケジュールを詰め込み過ぎる性癖から、決してやってはならない   「口パク」 をやってしまったのです。 

 

 事の真相をお話ししましょう。

パヴァロッティの真相告白によれば、

 ポピュラー音楽の歌手たちと共演する馬術大会のコンサートと、自分自身のロンドンでのオペラ 「トスカ」 に出演する為の練習とが重なって、その年はいつもに増して大忙しだったようです。 パヴァロッティにとってポピュラーの新曲は、歌うことは楽しみでしたが、慣れないことだったので神経質になっていたようです。一方ロックンロールのスター達との録音も上手く歌えたようでした。

ところが、「パヴァロッティ インターナショナル馬術大会」 主催の重い責任の中で、自分自身のロンドンでのコンサートでのオペラ出演のことも心配になってきました。

 いつもなら オペラやコンサートで歌う前は、病気の赤ん坊を扱うように、自分自身に用心深くなり、外出は避け、エスキモーのように帽子を目深に、スカーフで口を覆って声を守るのですが、馬術大会ではそうやって自分を守るわけにはいきません。

 コンサートが目前に迫った時、ほかのスターたちが生で歌っている時に、まえもって録音しておいた自分のパートだけ流す事を思いついたのです。

  こうして事件はおこりました。

 「恐怖と録音技術力との誘惑に私は負けたのです。 更に私は判断を誤ったのです。 あたかも生で歌っているかのように見せられると思ったのです。 演奏に合わせて口を動かせるから、私の歌声が一ヶ月前の録音だとは誰も気付かないだろうと思ったのです。 もっとも愚かな判断でした。」 

 断腸の思いで自叙伝に告白しております。

     くちパクッと鯉翻へり水温む

     (くちぱくっとこいひるがえりみずぬるむ)

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よみがえった馬への愛情

 スポーツ好きの中でもサッカーの狂信者のパヴァロッティも40才代には、サッカーに匹敵するほどの情熱を傾けたスポーツが馬術だったそうです。

著書「マイ・ワールド」に若々しく書かれております。

 Photo 子供のころからの動物好きもあって、田舎に住む馬の売買を営む叔父に付きまとって、馬に対する愛情が一気によみがえり、’79年アイルランドでのコンサートの後2頭の馬を買ってモデナの家に連れ帰り、結局10頭もの馬を持つまでになり、暇さえあれば娘たちと乗馬を楽しむようになったのだそうです。

(画像は1979年愛馬と)

「わたしは馬と一緒にいるだけでくつろぎ、不思議なほど純粋な気分になるのです。 子供の頃は家が貧しくて犬を飼う事もできなかった。 歌手として稼ぐようになった時には いつも旅に出ていて、犬には環境が悪くて飼えなかった。犬は馬より賢く主によくなつく。 馬は飼い主が来ると喜ぶが、いないからといって犬のように寂しがらない。」   こうして馬への愛情から次第に「障害飛越競技」へと興味をふくらませていったのでした。

     装束の凛々し駿馬や風光る

      (しょうぞくのりりししゅんめやかぜひかる)

 1990年国際馬術大会が 「パヴァロッティ・インターナショナル」 と銘打って、生誕地モデナで開催されることになりました。

規模が大きすぎて、あらゆる困難に立ち向かわなければならない羽目になりましたが、信頼する多くの仲間や資金集めは歌手ゆえに着々と準備は進行して、大会は大成功をおさめました。

Photo_2  こうして毎年のように大会が開催され、本来の歌手活動とともに馬術大会にのめり込んでいったのです。

 (この画像は、1989年アルゼンチンで、しばしガウチョになり切ったパヴァロッティの雄姿)

 大成功を収めた二年後大会へのめり込み過ぎたパヴァロッティは、後世に残る大失態を犯すことになるのです。

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一晩の報酬

 三大テノール初のコンサートは、当初 「三人で歌おう!」と云う考えはカレーラスが云い出したものヽ カレーラス自身が白血病に倒れ、奇跡的に回復した彼の全快祝いの気持からのようでした。

 三人ともサッカーの熱狂的なファンで、ワールドカップの祝賀ムードを盛り上げるために計画は着々と進められ、高い水準の名指揮者ズービン・メータ率いる フィレンツェ五月音楽祭管弦楽団、ローマ国立歌劇場管弦楽団によって、1989年12月にローマでリハーサルが始まりましたが、短いリハーサルで準備不足のうえ、全世界のTV中継という事になり、カレーラスの全快祝とか、ワールドカップ開催を祝う気楽なものではなくなり、一大音楽イベントとなっていったのでした。

 2 この画像は、コンサートのためのリハーサル風景です。

 三人が三人とも不安だったからこそ、心が固く結びつき互いに想像を絶する努力を重ね、奇想天外のアイディアも飛び出しました。 「メドレー最後の『オ・ソレ・ミーオ』は三人で丁寧に歌い、アンコールで再び『オ・ソレ・ミーオ』を歌った時は、指揮者メータの同意を得て、私はおどけて最後の ♪オ・ソレ・ミーオ、、、を延々と引き延ばし極端なビブラートまで加えて歌ったのに、それに続くドミンゴもカレーラスもすかさず声を揃えて、これまた私のやったように ♪ミーオをビブラートを効かせて歌ってくれたので、私ひとり馬鹿な真似をやっているとは思われずに済みました。」と述懐しております。

 とは言っても、You Tube の動画を見る限り、歌い出す直前のパヴァロッティの 「さぁ!これから聴衆を笑わせて見せよう!」 と、満面の笑みをたたえているのです。

この奇想天外に彼の予想通り、聴衆の笑い声や拍手喝采もリアルに収録されたCD再生場面を聴き逃すまいと、思わず耳をそばだててしまうのです。

 パヴァロッティらしい茶目っ気たっぷりなサービス精神には微笑まずにはいられません。

Photo_3

  この画像は、三大テノール ローマ・カラカラ浴場遺跡でのコンサート風景です。

1990年と云えば、パヴァロッティ55才、ドミンゴ49才、カレーラス44才

三人とも意気盛ん、完成された世界の三大テノールとして、絶対的勢威を奮ったことは云うまでもありません。

 あらゆる点で大成功のこのコンサートは、ふだん冷淡な音楽評論家でさえ幾多の賛辞を贈ってくれたり、新聞でも三人が一晩で得た報酬の膨大さについて書きたてました。 確かに多かったに違いないないけれども 「一晩の報酬としては多すぎる!」 という人には、ピカソの言葉を紹介しましょう。

 あるときピカソは人に頼まれて、三分間でさっと絵を描き、膨大な金額を要求したそうです。 相手が抗議するとピカソは 「お言葉ですが、この絵を描くのに要した時間は三分間ではありません。 三十年と三分なんです。」 と。

     マエストロの歌戯れおうて山笑ふ

     (マエストロのうたざれあってやまわらう)

 付記 

 パヴァロッティ  1935年10月12日  イタリア・モデナ生まれ

 ドミンゴ      1941年1月21日   スペイン・マドリード生まれ

 カレーラス    1946年12月5日   スペイン・バルセロナ生まれ

 指揮者 ズービン・メーッタ 

           1936年4月29日   インド・ボンベイ生まれ

   1990年、95年、98年、07年 ウィーン・ニューイヤーコンサート指揮

 

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世紀の大イベント打ち明け話

 Photo  ’08年9月7日投稿のこのブログで、「オ・ソレ・ミオ白露に消える」、1990年7月ローマのカラカラ浴場遺跡での三大テノールによる世紀の大共演収録CDの事に触れました。

 パヴァロッティの著書「パヴァロッティ マイ・ワールド」の中に、三大テノールのコンサートが世紀の大イベントになるまでの偽らざる巨匠の胸の内が事細かく記されております。

 本来三大テノールの三人は、好敵手などと云う甘いものではなく、なんとか自分の優位を獲得しようと日夜競い合っていると云っても過言ではなく、同じ舞台で歌う事など考えられないと云う事が常識でした。  「当時新聞でもドミンゴとパヴァロッティの中の悪さを書き立てヽいましたが、これは嘘で実に良い友達です。 確かにピリピリしていた時代もありましたが、今はそんな事も忘れ、良い友達関係を築いていて、カレーラスを交えた三人でコンサートをやるのが効果的で、カレーラスのためにもなると考えたのです。」と、、、。

 プラシド・ドミンゴ、ホセ・カレーラス、ルチアーノ・パヴァロッティの最初の三大テノール、カラカラ浴場遺跡でのコンサートは、あれほどの人気を呼ぶとは三人とも予想すらしていなかったようでした。

Photo_2 そもそもその年ローマで開催されたサッカーのワールドカップの試合に合わせて開かれたもので、ワールドカップの祝賀行事のひとつだったそうです。 三人とも自分たちのコンサートよりサッカーの方が重要だったし、サッカーという素晴らしいスポーツに対する三人の情熱を示したかっただけのようでした。 

画像は第1回三大テノールコンサート打ち合わせ風景。  このコンサート成功は指揮者ズービン・メータ(左)のおかげ と三人は称えます。

プッチーニ作曲歌劇「トゥーランドット」より「誰も寝てはならぬ」 居ながらにして堪能出来ようとは、、、 夢のようです。

 著書「マイ・ワールド」でパヴァロッティは、「わたしは生れてこの方ずっと熱烈なスポーツ好きで、ほとんど狂信者と云ってもいヽ程あらゆるスポーツが好きだが、わけてもサッカーには目が無い。 物心がつく頃から、子供時代は暇さえあればサッカーをやっていた。 学校にいる時と食事をしている時以外はいつも近所の友達と外でボールを蹴っていたものだ。 高校のチームでも、地元のリーグでも選手だった。 ゲームに出ている時には、いつも動き回ってじっとしていることが無かった。 精力が有り余っていたのだと思う。

 Jpg_2 私の中には音楽好きの血と同じくらいサッカー好きの血が流れていて、プロ・チームの動きには熱烈な視線を送っている。 サッカーシーズン中は、世界のどこにいようと、イタリアの友人に電話で試合結果を聞く。  サッカーが私の歌手生活に大きく関わったことは、ドミンゴ、カレーラスとの最初の三大テノールコンサートを開く発端になったのだ!」

   世界のオペラ歌手として有名になってからの巨体パヴァロッティからは想像も出来ないほど、十代の頃の彼の写真を見ればスポーツ万能少年時代が彷彿と蘇ってきます。

     独り家もそよ春風の歌流れ

     (ひとりやもそよはるかぜのうたながれ)

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