ロシア世界遺産の旅 ~18~
○ 大黒屋光太夫 ~下編~
ロシア皇帝の親書を持った使節の突然の来航で、幕府は騒然となりましたが、当時幕府の中心人物であった老中・松平定信は、実は、米の生産調整のため収穫過剰の年はロシアに輸出して、不作の年はロシアから麦などの穀物を輸入したいとロシアとの限定貿易を考えていた矢先でした。
松平定信は幕府意見調整の上で、ロシア使節に松前までお出で願い、翌年寛政5年(1793年)6月24日松前の地で光太夫と磯吉の二人は日本側に引き渡されたのでした。 やっとの思いで日本にたどり着いた小市は、根室で病死してしまいました。
(大黒屋光太夫物語より)
ラクスマンには、「根室や松前」では外国交渉は取り扱えないため、次回からは長崎に来訪して欲しい」 と申し入れ、長崎入港の許可証を渡しました。
ところが、光太夫と磯吉の二人が江戸に回送される途中の7月23日、彼らを日本に迎え入れてくれた老中・松平定信が突然失脚してしまうのでした。 もし定信が失脚さえしていなければ、彼らは後のジョン万次郎のように、外国との交渉役として大活躍していたでしょうが、江戸に到着する間に彼らの運命を暗転させてしまうのでした。 彼らは一転して 「鎖国の禁を犯して外国に出た犯罪者」 として取り扱われてしまいました。
彼らがロシアで見聞したことは、将軍侍医・桂川甫周が聞き取って 「北槎聞略」11巻にまとめられ、幕府にとって貴重な外国の様子に関する超機密文書資料となり、現在では岩波文庫に収録されております。
二人はそれぞれ20年ぶりほどで、故郷の地を踏むことになりましたが、光太夫の妻は、光太夫が駿河沖で亡くなったと思い、すでに再婚していました。
江戸に戻った光太夫は、別の女性と結婚し子供をもうけ、文政11年(1828年)に逝去。 光太夫の子亀次郎は後に大黒梅陰と名乗り、儒学者となるのです。
磯吉は、天保9年(1838年)に亡くなりました。
鎖国の江戸時代 嵐に遭遇 ロシアに漂流し、想像を絶する幾多の困難に耐え、単身でエカテリーナ女帝に謁見し、帰国を果たした 「大黒屋光太夫」 の強靭な生き様を、多くの若人にも是非周知していただきたいと思いつゝ、、、。
大黒屋光太夫 の概略 ~完~
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コメント
ぽちさん
またしても興味深い偉人伝のご紹介をありがとうございました。
広く知られていない偉人がまだまだ発掘されそうで、ますますぽちさんのブログを拝見するのが楽しみです。
旅をするたびに、その地にまつわる歴史がひもとかれますね。
それにしても、いまや外国との貿易は当たり前のように行われ、私たちは恩恵を受けていますが、貿易の開始時は、さまざまなかたの命がけの歴史があるのですね。
そう思ってありがたく、輸入品を眺めるようにしたいと思います。やっぱりご先祖様は偉い!です。
投稿 ゆーこりん | 2008年1月21日 (月) 12時12分
♪ ゆーこりんさま
当時日本はまだ鎖国の最中、今から210数年前、ブログ画像「漂流図」でお示しのように、気の遠くなるような距離、日数を経てよくぞ帰国できたこと、強靭な生き様に驚きます。
エルミタージュ美術館のたった数時間の見学でさえ、疲れた! を連発していたことを今は恥じ入っております。
投稿 ぽち | 2008年1月21日 (月) 16時53分