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2008年1月

ゆず礼賛

Present  今冬はすっかり「ゆずのママレード」にはまってしまいました。

結局4回の挑戦で〆て5kgの柚子と格闘したのでしょうか!

甲斐あってこんな形で友人にプレゼントし、大変喜ばれました。

 ゆず礼賛

Kinariyuzu  柚子 学名 Citrus junos

  ミカン科の常緑樹 柑橘類のひとつ

 本柚子とも呼ばれ、果実は子供の握りこぶしほど、表面はデコボコしています。果実が小型で早熟のハナ柚子とは別種ですが、日本では両方をユズと云っております。

 生い立ちは、中国の揚子江上流が原産とも云われ、日本には朝鮮半島を経由して入ってきたようです。 既に、飛鳥・奈良時代に栽培されていたと云う記述も見られます。

 柚子の語源は、中国語の 「柚」 のようで、日本で「柚」が「柚子」となったのは古来から利用されていた食酢によると云われ、 「柚酢」 が 「柚子」 になったかも知れません。  韓国語でも 「柚子」 と書くそうです。

 「桃栗三年柿八年 柚子は遅くて十八年 銀杏の大馬鹿三十年、、、」と唄われていますが、、、

 冬至の日、柚子湯に親しむ習慣の日本人ですが、ゆずの香り、温もりに心身ともに癒されます。

 柚子は完熟しても酸味が非常に強いため、ミカンのような食べ方はできませんが、薬味としても日本人に親しまれております。 九州地方では、柚子胡椒として古くから使われ、鍋物に、魚料理に今では全国的にファンも多いようです。

また、絞った柚子の果汁を砂糖と無発砲水で割ったレモネードや、柚子のワインもよく見かける時代となりました。

○ 柚子の効用

 柚子には、クエン酸・酒石酸などの有機酸類が多く含まれ、疲労回復、肩こり、筋肉痛を予防する働きがあり、胃液分泌の働きを助け、胸やけ、胃痛を解消したり、肝臓の働きを円滑にすると云われます。

 ビタミンCやフラノボイドも含まれ、抗酸化作用があり、病気の原因となる活性酸素を消去する働きまであるのです。 つまり、血中コレステロールの低下や、抗ウィルス作用、抗がん作用の働きまであるそうです。

 ビタミンPは、血圧低下・脳卒中・心筋梗塞の発作予防までしてくれるすぐれものなのですね。

 私は、柚子の皮、種を除いた袋のままの実で「ママレード」を作りました。 とろ火で煮ているうちに袋もすっかり溶け込んでしまいます。

取り除いた種はどうぞ捨てないでください!!

Tanesyoutyu  柚子は種が多い!! と嫌わないでください。

この種もじつは優れもので、血糖上昇の予防や、コレステロール値をコントロールしたり、毛細血管の働きを助け、小じわを防いだり、シミ・ソバカスを薄くする働きがあるのです。

 種は洗わずに、20度程の焼酎に漬け込み、2~3ヶ月すると成分が溶け出してトロリとすれば化粧水の出来上がりです。

 台所仕事の後先に手荒れの予防に、お風呂上がりに「踵」にすりこめば、驚くほどツルリとした感触はうれしいです。

(刺激がある方は水で薄めてください)

※ この画像は柚子5kg分の種です

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ゆずのママレード

 思いがけず柚子をたくさんいただきました。

部屋いっぱいに広がる柚子の香り!

ママレードに挑戦してみました。 予想以上の出来栄えと、この美味しさをお伝えしたくて、、、、、!

 

Yuzu_0032  材料  新鮮な柚子    1kg

      グラニュー糖    

         柚子の180%

                     (1800g)

Yuzu_4_001  作り方

 ① ゆずはお湯を使ってブラシで丁寧に洗います。

  無農薬でも丁寧に洗います。

② 実に傷をつけないように皮を剝きます。ゆずは皮も実も柔らかいので優しく、、たとえば、ゆずを地球儀に見立てゝ、赤道線のように皮に軽く切り込みを入れて優しく剥きます。 皮は時々水を変えながら晒し、一日置きます。

Mitanenuki

 ③ 剥いた実は白い筋を取り除き、ひと袋ずつはずして包丁で半分に切りながら種をはずしてボールに入れて冷蔵庫に保存します。  この時点で種は出来るだけ取り除いておけば、後の作業が楽でしょう。

   ※ 種は洗わずに焼酎漬けにすれば肌荒れ用化粧水になりますので捨てないで、、、

Sengirikawa ④ 次の日、水に漬けて置いた皮をもう一度水を変えて、マッチ棒ほどに刻み、更に水に放ち苦味のアク抜きをします。

⑤ 千切りした皮をザルにあげ、種を取り除いておいた実と鍋に移し、ひたひた程度の水を加えてくつくつ煮ます。

焦げやすいので煮立ったら中火にして、木べらで時々底からかき混ぜながら煮ます。 1時間ほどで、実も袋もすっかり溶け、皮も柔らかくなります。  目残しの種が浮き上がってきますので、丹念に取り除いてください。

⑥ 皮が柔らかくなったら、グラニュー糖を加えて、更に焦げに気を付けながら煮詰め、透明感が出てきたら出来上がりです。

  ※  焦げやすいですのでご注意ください。

Yuzu_jyam2  荒熱がとれたら保存ビンなどに移します。

煮詰める時間によって美しい琥珀色の違いがあります。

トーストに美味しいばかりか、

コーヒー・紅茶・ヨーグルトに混ぜれば仄かな香りと甘みでほっとしたひと時が、、、

 熱いお湯で溶いて 「ゆず茶」 として美味しく、体も温まりますので、疲れた時、寒い日などに最適の飲み物となります。

    次回は、 「ゆず礼賛」 をお楽しみください。

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ロシア世界遺産の旅 ~19 完~

○ バレエ鑑賞  「白鳥の湖」

 ロシアの旅 最後の夜は、本場ロシアの芸術 チャイコフスキーのバレエ 「白鳥の湖」 を鑑賞する幸運に恵まれました。

 ロシア世界遺産紀行最終日、絢爛豪華な55の続き部屋をもつ エカテリーナ宮殿、必見の琥珀芸術の最高峰 「琥珀の間」 を堪能した夜は、早めの夕食をとって私たちは、専用バスで、リムスキーコルサコフ劇場へと向かいました。

 ボリショイバレエに代表されるロシアバレエの技術力と、芸術性は高い評価を得ており、ましてご当地で鑑賞できるなど夢のような絶好の機会でした。

モスクワのバレエシーズンは、9月~6月とのこと、この期間は、どこかの劇場でバレエを公演しているのですが、7月、8月は夏季休業で、有名バレエ団は海外公演に赴くそうです。   それもその筈、私たちが観賞した翌日には、このバレエ団も日本へ向けて公演に旅立ったのでした。

 Jal3           8日間のロシア世界遺産の旅を終えて、帰航のサンクトペテルブルグ空港からモスクワ空港への EV-135便と、 モスクワ~成田空港への JL-442便には、このバレエ団の踊り子たちも同乗しておりました。

空港内の移動の車の中では、息のかかる程まじかに踊り子たちに接し、齢甲斐も無く胸が高鳴る思いでした。

       舞台はね街は白夜の人の群れ

       小扇の踊り子も乗り旅帰航

       機窓暗し眼下に雷鳴轟きぬ

       高度一万機体を揺らすはたた神

       雷逃げて水平飛行の翼ひかり

○ 帰国して

       籐椅子にロシア民謡聞き惚れり

       端居して心の溝を宗教歌

       旅に求めし琥珀腕輪の日焼けあと

       梅雨寒や籠りて旅の句に遊ぶ

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ロシア世界遺産の旅 ~18~

○ 大黒屋光太夫 ~下編~

 ロシア皇帝の親書を持った使節の突然の来航で、幕府は騒然となりましたが、当時幕府の中心人物であった老中・松平定信は、実は、米の生産調整のため収穫過剰の年はロシアに輸出して、不作の年はロシアから麦などの穀物を輸入したいとロシアとの限定貿易を考えていた矢先でした。

 松平定信は幕府意見調整の上で、ロシア使節に松前までお出で願い、翌年寛政5年(1793年)6月24日松前の地で光太夫と磯吉の二人は日本側に引き渡されたのでした。 やっとの思いで日本にたどり着いた小市は、根室で病死してしまいました。

Koudaiumap       ←  漂流図

       (大黒屋光太夫物語より)

 ラクスマンには、「根室や松前」では外国交渉は取り扱えないため、次回からは長崎に来訪して欲しい」 と申し入れ、長崎入港の許可証を渡しました。

 ところが、光太夫と磯吉の二人が江戸に回送される途中の7月23日、彼らを日本に迎え入れてくれた老中・松平定信が突然失脚してしまうのでした。 もし定信が失脚さえしていなければ、彼らは後のジョン万次郎のように、外国との交渉役として大活躍していたでしょうが、江戸に到着する間に彼らの運命を暗転させてしまうのでした。  彼らは一転して 「鎖国の禁を犯して外国に出た犯罪者」 として取り扱われてしまいました。

 彼らがロシアで見聞したことは、将軍侍医・桂川甫周が聞き取って 「北槎聞略」11巻にまとめられ、幕府にとって貴重な外国の様子に関する超機密文書資料となり、現在では岩波文庫に収録されております。

 二人はそれぞれ20年ぶりほどで、故郷の地を踏むことになりましたが、光太夫の妻は、光太夫が駿河沖で亡くなったと思い、すでに再婚していました。

江戸に戻った光太夫は、別の女性と結婚し子供をもうけ、文政11年(1828年)に逝去。  光太夫の子亀次郎は後に大黒梅陰と名乗り、儒学者となるのです。 

磯吉は、天保9年(1838年)に亡くなりました。

 鎖国の江戸時代 嵐に遭遇 ロシアに漂流し、想像を絶する幾多の困難に耐え、単身でエカテリーナ女帝に謁見し、帰国を果たした 「大黒屋光太夫」 の強靭な生き様を、多くの若人にも是非周知していただきたいと思いつゝ、、、。

             大黒屋光太夫 の概略 ~完~

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ロシア世界遺産の旅 ~17~

○ 大黒屋光太夫  ~中編~

 1791年 一行を代表して、光太夫がラクスマンとともに速橇でイルクーツクからペテルブルグを横断したのです。

1788年にカムチャツカからイルクーツクまでの4000kmを8ヶ月もかかって横断したのに、ラクスマンのソリは、6000kmを2ヶ月で横断できたのでした。

Koudaiubronz

 ← 大黒屋光太夫像 (稲垣克次作)

 現在 三重県鈴鹿市若松小学校と

     市役所にあります。

 ペテルブルグでラクスマンと光太夫は、皇帝エカテリーナ2世に二度の謁見に成功しました。 皇帝は彼らに同情するとともに、これを機会に、かねてから考慮していた日本との交易を実現したいと考えて、ラクスマンの息子の アダム・ラクスマン陸軍中将(当時26才)に遣日使節を命じて、光太夫と共に日本に赴くよう命じたのです。

 この時点で、イルクーツクで6名のうち九衛門が亡くなり、庄蔵はシベリア横断の際の凍傷が原因で片足を切断、新蔵も重病と不安からロシアに残る道を選び、新蔵はロシア人女性と結婚しました。

 光太夫・磯吉・小市の3人だけが帰国の途に就くことになり、オホーツクの港から エカテリーナ二世号と名付けられた船に乗り、漂流から九年半の寛政四年 (1792年10月20日) ラクスマンに伴われてようやく根室港に 光太夫・磯吉・小市の3人が帰国したのでした。

 3人のうち小市は、根室で病死しており、この時引き渡されたのは、光太夫と最年少の磯吉の2人だけでした。

 18名の乗組員は最後には2名となって、実に漂流から九年半の異国での厳しい年月を経て、念願の日本の土を踏んだのでした。

             つづきは次回にゆずります

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ロシア世界遺産の旅 ~16~

○ 大黒屋光太夫 (1751~1828) ~上篇~

 エカテリーナ宮殿見学の折りに、またしても、イコン画家山下りん同様、その昔ロシアに関わり合いのあった日本人、大黒屋光太夫の事を、ブログを編んでいる間に私は、山下りんとの感動と同じように大変な興味を覚えたのでした。

 井上靖の小説 「おろしや国酔夢譚」 などで、世間一般はご存知の事でありますが、わたし個人としては山下りんさんの事同様に恥ずかしながら、詳しくは存じ上げませんでしたので、さっそくインターネットで調べてみました。

Koudaiu  画像は光太夫と磯吉 北槎聞略より

 現在の鈴鹿市、伊勢の南若松村に生まれた光太夫は、32歳の1783年 天明2年12月9日、回船の仕事に携わり江戸に米や木綿を積み込み、光太夫ら総勢18名を乗せた神昌丸は、4日後に駿河の沖で突然の嵐に遭遇、操縦不能のまゝ半年以上も漂流する事となりました。

やがてアリューシャン列島のアムチトカ島に漂着したのです。

この寒さ厳しい島で8人の仲間が亡くなりました。

4年後この島にラッコの皮を獲りにきたロシア人に遭い、一行はカムチャツカ半島のロシア人の町 ニジニカムチャツカに連行されました。 光太夫らは、日本に返してほしいと役人に嘆願したのですが、鎖国中の日本には簡単には聞き入れられず、願いは不認可となりました。

 1788年 漂流してから5年後、生き残った6人は帰国をシベリア総督に願い出るために、イルクーツクへ橇で8ヶ月を要して、バイカル湖のほとりのイルクーツクにたどり着いたものゝ、シベリア総督の色よい返事は得られませんでした。このニジニカムチャツカでも3人の仲間が亡くなっています。

 残った失意の6人に手を差しのべたのが、フィンランド出身の植物研究学者 キリル・ラクスマンでした。

ロシアの科学アカデミーの会員に名を連ねていたラクスマンは、イルクーツクで、光太夫らと知り合い同情し、自分と一緒に首都ペテルブルグまで行って皇帝に直接帰国の認可の支援を願い出ようと誘います。

              つづきは次回をお楽しみに、、、

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ロシア世界遺産の旅 ~15~

○ エカテリーナ宮殿

 絶対君主として君臨し、海を愛したピョートル大帝は、フィンランド湾を望むこの地に、1714年フランスはパリのヴェルサイユ宮殿をモデルに離宮建設を命じました。 1613年~1917年 300年のロシア王朝を今に伝えるエカテリーナ宮殿です。

Kaidantaki  入場して、正面階段を上がると、美しい天井画が目を引きます。

 その昔、ロシア領のカムチャツカで嵐に遭い漂流し、救助された大黒屋光太夫は、日本への帰国許可を得るために、極東の果てから首都ペテルブルグに辿り着き、皇帝エカテリーナ2世に謁見したのがこゝエカテリーナ宮殿のこの部屋だった事をガイドさんから聞いた時、ここでも遠い昔日本人との深い関わりを不思議な親しみと涙ぐむほどの感慨を覚えました。

 大黒屋光太夫のことは、次回に触れてみたいと思います。

 見学の最も期待されたのは 何といっても復元された 「琥珀の間」 です。

1717年にプロセイン王が、ピョートル大帝に贈った琥珀のモザイクで飾られていたのが、第二次世界大戦にドイツ軍によって琥珀をロシア国外に運び出され、現在もその行方は謎に包まれているそうですが、写真資料を元に、琥珀芸術の最高峰 「琥珀の間」 が復元されたのは2003年のことでした。

2007年に訪れた私たちは、幸運にも輝くばかりに幾十万個にも及ぶ彩とりどりに琥珀のモザイクで飾れれたこの部屋を、この目で称賛できた光栄は、何にたとふべきか、筆舌には尽くしえません。

 残念ながら、撮影は禁止されました。

       光太夫も訪ねし暑さの大宮殿

       「琥珀の間」 溜息しきりや夏の外

       歴代のロマノフ誇り夏盛ん

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ロシア世界遺産の旅 ~14~

○ ピョートル大帝  夏の庭園

 ロシアサミット開催のための、厳しい警備を避けて、朝8時、ホテルを専用バスで出発、遠回りをして 広大な緑滴る 「ピョートル大帝の夏の宮殿」に到着したのが9時半を過ぎておりました。

 真夏の太陽がぎらぎら輝きはじめ、もうすでに大勢の観光客が入場の列を作っておりました。

 宮殿を背にして、大滝の上から庭園を見下ろせば、フィンランド湾が望め、心地よい風に私たちは眼を細めて、ピョートル大帝の偉容を偲びました。

 その荘厳な景観からは、ロシアをヨーロッパへと発展させようとした、ピョートル大帝の野心がおのずと伝わってきます。

 1714年ピョートル大帝の命で、庭園と宮殿の建設が始まりました。

大帝は、直々フランスはパリのベルサイユ宮殿を訪問し、噴水の構想が芽生えたのです。

 園内には、約150もの噴水と、4つの滝が作られてあると云われ、その水が織りなす華麗な宮殿と、緑美しい木々との調和は、私たち異国の旅行者を一層楽しませてくれるのです。

Funsui  園内には無数の噴水が点在し、中でも 獅子の口を開くサムソン像の噴水は、1734年にスエーデン軍との戦いの勝利を称えて造られたもので、豪華な造りと、勢いよく上がる水煙の中に、七彩の虹が宮殿への架け橋のように見えたのでした。

 庭園のあちこちに、突然噴き出す 「悪戯噴水」 が仕掛けてあり、散策する旅行者を驚かせるのです。 観光の大人も、地元の子供たちに交じって遊び戯れる光景がなんとも楽しく、濡れる人、見ている人もみんな童心に還ってしまうのでした。

       大帝の水が織りなす夏庭園

       大滝に浮かぶ離宮の輝けり

       いたずらの噴水浴びて子等弾み

       悪戯の噴水旅人も子に還へり

       大噴水離宮へ架ける虹の橋

       噴水のあまた離宮の栄華かな

       大滝のロシア史誇る大宮殿

       ネプチューンの一湾展け風涼し 

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