モリアオガエルの孵化

 モリアオガエルは、直射日光がお好きではないらしく、産卵期の5月から7月頃になると こヽ丸子路 「おおだたら」の誓願寺の裏山からノコノコ現れ、池の真上に伸ばす樹木の枝先に産卵します。 雌の体長は8~9センチメートル、雄は5~6センチメートルの蚤の夫婦です。 産卵は、雌1匹に雄5~6匹が群がる事もあるそうです。 

 Photo 足の吸盤は非常に発達して水泳も得意ですが、樹上でも枝から枝へ、葉から葉へ巧妙に跳び回るそうですが、産卵は概して雨上がりの翌早朝 暗い中から日の出の頃には終えて、人目につかないところに隠遁するのでしょうか? 容易に見つける事ができません。

 6月初旬、目に鮮やかな柿の若葉に映えて、モリアオガエルの輝く卵の泡を確認した私は、孵化の様子を見たくて 6月24日夕方バスに揺られて行ってまいりました。

 誓願寺本堂まえでは、ご住職が庭の手入れをされておりました。

「モリアオガエルのお池を見せてください」 とご住職にお断りして、勝手知ったる裏庭の古池へと周り、その後の変化に期待を込めて、、、  ところが、以前確認した瑞々しく映えていた卵の泡も 淡褐色になって垂れ下がっておりました。 がっかりしながら、ご住職に軽く会釈をして立ち去ろうとしたとき、「付かぬ事をお聞きしますが、、、モリアオガエルの孵化の様子をご覧になったことがありますか?」 ご住職は「天候、気温、湿度など諸条件が揃わなければ中々難しいのです。 天気の良いこんな日では孵化が始まりかけた泡の中もカラカラに乾いて、折角生み付けた卵もダメなんです。 よくあることです。 孵化の様子をご覧に入れましょうか?」

「??? えー? どう云うことでしょうか? ぜひ見たいのですが、、、!」

 半信半疑の私は、デジカメを取り出して構えました。 「いいですか! 一瞬の出来事ですよ! アッという間ですよ!」  ご住職は成熟した卵の泡を手に受Photo_2 けて、水を掛け流し始めました。その時です!  泡を滑るように、1センチメートルにも満たない小さな小さなオタマジャクシが次々と池の中に落下して行くではありませんか!

 「ワー! 凄い! 凄い!」  私は夢中でデジカメのシャッターを押し続けました。

  ご住職と私だけの 荘厳な儀式? です。

     泡の毬よりするりと蝌蚪の滑り落つ

    (あわのまりよりするりとかとのすべりおつ)

 我に返ると、静まり返った寺苑は、夏鶯の鳴き声だけが裏山にこだましておりました。

Photo_4  池水の樹上に産み付けなければならない卵も、時には落下すれば石の上と云う勘違いをして産卵する親カエルもいるのです。 そんな卵も幾つかありました。 

ご住職は産み付けられた枝を手折って、池の上に伸ばした他の枝先へ移し替える保護もなさいました。

 Photo_6         こうして、今年も無事に何十匹かの天然記念物が裏山へ戻って行くことでしょう。

 

 

 思いがけなく、荘厳にして貴重な生態系を垣間見る事が出来た幸運を感謝して、、、

     

     余生楽し孵化垣間見て柿若葉

     (よせいたのしふかかいまみてかきわかば)

     モリアオガエルの孵化老鶯のしずけさに

     (もりあおがえるのふかろうおうのしずけさに)

 

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丸子路の「モリアオガエル」

 JR静岡駅北口4番バス乗り場から、国道線藤枝行きで 約20分ほど行くと、東海道五十三次で広く知られる 「丸子のとろろ汁」 のお店がありますが、その次の停留所 「二軒屋」でバスを降りれは、昨秋このブログでご紹介した 「おおだPhoto たらのお不動さん」への不動道に差し掛かるほんの入り口に 歴史的にも由緒ある 「誓願寺」というお寺があります。

 山門をくぐれば、手入れの行き届いた苑に、見事な藤棚が今では涼しい木陰となって、しばしの憩いの場所となっております。

 Photo_2 「誓願寺」は、建久年間(1190~1199年)に、源頼朝の両親追善のために建立されました。 天文年間(1532~1555年)の丸子城の戦火で類焼しましたが、永禄11年(1568年)駿府へ進出した武田信玄がこれを惜しんで再建したものです。

 また、大阪冬の陣を起こしたいきさつの舞台となったところです。

 慶長19年(1614年)の大阪冬の陣に続いて、翌元和元年(1615年)5月の大阪夏の陣で、豊臣家は滅んでしまいました。 境内には、豊臣家の重臣 片Photo_3 桐且元(かたぎりかつもと)夫妻の墓 二基が、子孫の片桐石見貞昌(かたぎりいわみのかみさだまさ)によって建てられております。

 ちょっとお硬い話から始まりましたね。

 ところで、この寺の本堂右側には、目に鮮やかな柿若葉や、ユーモラスな藤の実の垂れる棚の下には古池があり、「モリアオガエル棲息の池」 として訪れる人が多い事でも知られております。

 Photo_4 モリアオガエルは、伊豆天城山八丁池に棲息していたのを、昭和天皇が命名された天然記念物です。  この古池こそ「モリアオガエル」の珍しい産卵風景を見る事ができる池なのです。

 珍しい産卵風景を見たくて、6月初旬に行ってまいりました。

誓願寺のこの池にも、数十年前から集団で棲息が見られ、5月初旬になると裏山からのそのそと現れ、この古池の真上に茂る樹木に 白い泡状の液体に包まれたソフトボールほどの大きさの産卵が7月頃まで見られます。 

 泡のなかには無数の小さな卵が泡を栄養源として成長し、1週間から10日間ほどで、オタマジャクシとなって池の中に次々と落下して行くのです。

2  私が出掛けた当日は、生み付けたばかりらしく、柿の若葉とのコントラストも美しく光り輝き、産卵の様子や孵化の瞬間のオタマジャクシの姿にはお目に掛かれませんでした。

 

     

     葉隠れにモリアオガエルの泡の毬

     (はがくれにモリアオガエルのあわのまり)

     モリアオガエルの性産卵は枝の先

     (モリアオガエルのさがさんらんはえだのさき)

 モリアオガエルの姿さえ中々出会う事も出来ませんが、ここまで確認したからには、何としても孵化の様子を見たいものです。

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喜寿を祝うクラス会

 今年五月半ば、 中・高時代のクラス会がありました。

 Photo  一泊二日の日程で 「喜寿を祝うクラス会」 と銘打って、広大な庭園と、数寄屋造りの近代日本の巨人画伯の名前から頂いた熱海の懐石の宿で旧好を温めたのです。

 思えば私たちが中学に入学したのは1945年(昭和二十年) まさに戦争末期の頃でした。

 入学して二ヶ月半、静岡大空襲で、自宅のみならず、趣ゆたかな母校も戦火に見舞われました。

 何もかも失った敗戦で、艱難辛苦を共にした中・高六年間に授かった母校の教育あればこそ、今の私たちがあるものと、今更ながら感慨にふけったのです。

  あれから五十八年、私たちは七十七歳の「喜寿」を迎えました。

少女の頃の面影ある方、お顔と名前がなかなか思い出せない方、懐かしい再会です。

     庭滝や喜寿祝ぎ合ふてクラス会

     (にわたきやきじゅほぎあふてクラスかい)

 激戦下の中での入学百五十名が、六年後の卒業時には百四十一名となりました。  あれから幾年月、物故者は十八名を超えます。

 Photo_3 久方ぶりの再開で、誰もが少女の頃に戻り、思い出話に興じます。

「喜寿祝いクラス会のお知らせ」 には、喜寿を迎えるにあたり、それぞれの思い入れの漢字一字を出欠席の返事に添え書きの提案がありました。

 三十二名出席の当日 夕食会も盛り上がり、いよいよ 「漢字一字」 のご披露がはじまりました。

欠席ながら回答された五十二名を加えて以下の通りです。

 喜 ・ ・ ・ 12     健 ・ ・ ・  8     

 幸 ・ ・ ・  6     和 ・ ・ ・  4    

 穏 ・ ・ ・  4     愛 ・ ・ ・  3

 風 ・ ・ ・  3     波 ・ ・ ・  3     

 夢 ・ ・ ・  2     学 ・ ・ ・  2     

 寿 ・ ・ ・  2     歓 ・ ・ ・  2

 凡 ・ ・ ・  2     恵 ・ ・ ・  2     

 命 ・ ・ ・  2

 雅  信  平  今  友  謝   美   爽   祈 佳  生  希  優  悠  忍  旅  努  短  進  紡  戦  など

 私は、「健」  健康は人間生活すべての基本、ベスト・コンディションです。 今日まで、これと云った大病も怪我も無くこられたからこそ、来春には喜寿の私は 病で逝った夫の五十回忌を迎えます。 

      「健康は何にも優る宝です」

 戦中戦後の艱難辛苦をなめ、いま喜寿を迎えた 「はらから」 の、ほとんどの来し方は、幸せに感謝の思いで まだまだ前向きの人生を楽しんでおります。

「こうして集う事が出来た私たちは幸せ者!」 お互いの健康を祈り、再会を約束して三々五々の散会となりました。

  Photo_2 大正・昭和のロマンあふれる、市街地とは思えない程 みどり豊かな庭園を備え、幾多の文豪たちに愛された熱海の文化遺産 「起雲閣」 の見学もできました。    モダニズムな建築様式に多彩なカルチャーの発信スポットです。

     

     ロマン溢る館や薄暑の風に座す

     (ロマンあふるやかたやはくしょのかぜにざす)

     クラス会名残の袖の夕薄暑

     (クラスかいなごりのそでのゆうはくしょ)

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富士山静岡空港開港

「遠い地平線が消えて、深々とした夜の闇に心を休めるとき、はるか雲海の上を音もなく流れ去る気流は、たゆみない宇宙の営みを告げています。 満天の星をいただく果てしない光の海を、ゆたかに流れゆく風に心を開けば、きらめく星座の物語も聞こえてくる夜の静寂(しじま)のなんと饒舌なことでしょうか。   光と影の境に消えていった遥かな地平線も、瞼に浮かんでまいります」

 ナレーションは、十数年前に星となった城達也さんの 「ジェット・ストリーム」のテーマ曲 「ミスター・ロンリー」   城さんの静かに語りかけるCDを聴きながら、空の旅に誘われ私は心地よい眠りに就くのです。

  Photo 開港予定を、土地権利者の立木問題が県知事の辞職にまで追い込んで、3ヵ月遅れの6月4日 晴れの日にはその名にふさわしい雄大な富士山を背景に、狭い日本の地方都市、ここ静岡にオープンしました。

 開港してまだ日も浅いある日、JR静岡駅北口 11番乗り場より 「しずおかジャストラインバス」に乗り込み、50分かけて空港着(片道\1000) を利用して新空港の見学をしてきました。

  空港ビルは、想像していたよりもはるかに こじんまりして、僅かながら国際Photo_3 線の定期便もありますが、世界都市へは「アジアの玄関口」には程遠く、アシアナ航空、大韓航空、日本航空のいずれも上海・仁川空港経由しての渡航です。

目下、ソウル、上海、台北、香港などを中心に、アジア太平洋地域への路線就航に向けて各航空会社に要請中だとか、、、。

 Photo_2

 開港間もない事もあって、満席の往復のバスは、大半は見学者 (当然私自身も見学者の一人です) と見られます。

Photo_4  まぁ! それにしても数少ない飛行機の離着陸の瞬間を見たさに、展望デッキ に張りめぐらされている金網に、何時間もしがみ付く見学者でひしめく光景は、ウィークデイでもこのありさまです。週末、祭日は如何ばかりかと思いやられます。

 静岡に空港を造ることが決まったのは、20年余り前のことでした。

今から8年ほど前の事、幾多のの試練を抱えながら、空港建設工事が着々と進む状況をTVで見ていた認知症が進み始めた90才を超えた母は、「空港ができたら私が留守番をするから外国へでも行ってきてちょうだい!」  と云い残して3年前に亡くなりました。  そんな母の言葉を懐かしく思い出しながら空港を後にしました。

     

     空港を統べて夏富士治まりぬ

     (くうこうをすべてなつふじおさまりぬ)

     富士の名の空港開く五月晴れ

     (ふじのなのくうこうひらくさつきばれ)

     六月の宙へ展けし滑走路

     (ろくがつのそらへひらけしかっそうろ)

     大空へ託す余生や夏の夢

     (おおぞらへたくすよせいやなつのゆめ)

狭い日本に 99 もの空港があるとか、、、

経済不況と云う逆風の中で、「日本一の富士山」 の名に恥じない魅力溢れる静岡の空の玄関として発展しますように、、、

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学習あればこそ!

 人生行路 「パソコンは老いを知らない!」 は、一昨年五月にブログデビューし、見切り発車、試行錯誤、迂回しつヽある時は楽しみ、ある時は戸惑いながら二年を綴る事ができました。  

 この二年間で延べ二万六千余人のお客様にご覧いただけた事は何より嬉しく、励まされたことでした。  ありがとうございました。

 なにせ後期高齢独り暮らし故に、これと云う真っ当な事も出来ず、唯々心身ともに健康である事と、いかに退屈を凌げる一日を送れるかが私の最大の課題でした。  勿体ない日々です。

 デジカメをぶら下げながらの散策、一日の何時間はパソコンに触れ、楽しむ事が出来たのは、この年齢になって今更ながら、生き甲斐にも通じるものがある事と嬉しい限りです。

 TOKAIパソコン教室での学習あればこそ、ここに至る事が出来ました。

インストラクターのY・Nさん ご指導有難うございます。

 今年十月になれば私は七十七歳の喜寿を迎えます。 この充実の一年間と同様、これからの一年も健康で退屈せずに過ごす事が出来ますよう、気張らずブログを続けらますよう念じつヽ。

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オペラ 「愛の妙薬」

パヴァロッティ演ずるオペラは、数あるレパートリーに素晴らしい高音を響かせ、それぞれの役柄を見事に演じきって、聴衆の大喝采を浴びております。

 Photo 適役中の適役、オペラ 「愛の妙薬」 の動画をYou Tube へご提供 (Movo Thomas ご登録のSeimaさん) の6カットは、このブログへの埋め込みは成りませんでしたので、それぞれのアドレスを表示しました。 クリックの上、十分にお楽しみください。 日本語訳の歌詞、それぞれの胸の内が理解できる素晴らしい動画です。

 『愛の妙薬』 はガエターニ・ドニゼッティが1832年に作曲された全2幕のオペラです。  物語は、惚れ薬「 愛の妙薬」 をめぐる、他愛もないコメディですが、オペラの中では時折、哀愁ただよう 心に沁み入る音楽もある不思議な魅力あるオペラです。

〇 主な登場人物

* アディーナ(ソプラノ) 地主の娘、頭も良いが高慢な美人

* ネモリーノ(テノール) 単純でちょっと間抜けな男で、アディーナに思いを寄 せる貧しい農夫 (パヴァロッティならではの味のある名演技)

* ベルコーレ(バリトン) 見るからに頼もしい若くて野心満々の軍曹

* ドゥルカマーラ博士(バス) 口達者なイカサマ薬売り

* 村人の合唱 ほか

〇 19世紀 イタリアのある小さな村の収穫風景場面

(カッコ中の数字はそれぞれの動画 所要 分:秒です)

1 (9:59)前奏曲のあと、幕が上がり葡萄の収穫で賑わう村の広場。

ネモリーノは美しい娘アディーナへの思いを独白します。 「なんて可愛い娘だろう! 見れば見るほど好きになる! でもあの人には僕の気持が伝わらない。どうしたら僕の気持があの人に分かってもらえるのだろうか?」 

 美人で高飛車な娘アディーナは 「トリスタントとイゾルテ」 の本を村人たちに読み聞かせています。 トリスタンの飲んだ惚れ薬で恋に落ちたイゾルテ姫。 そんな薬があったらいいなぁ! と陰でそっと聞いていた純粋無垢な若い農夫ネモリーノ。 

『何と彼女は美しい!』  (ネモリーノ演ずるパヴァロッティの聴きどころ)

http://www.youtube.com/watch?v=NY_-2rItZJs

2 (5:00)野心満々の軍曹が現れ、権力にかまけて 彼女を誘うのを傍で悔しそうにする農夫ネモリーノ。 彼女は軍曹に惹かれるが、彼女はじらす。軍曹は自信満々。 農夫は闘志を燃やす。

http://www.youtube.com/watch?v=F0DqOTTccTI

 (8:12)その気になって軍曹は立ち去る。 農夫は更にアディーナに云い寄る。 しかし、、、「あなたは内気だしダサイから、軍曹の方が好いのよ!」と、これもじらす。 悶々とする農夫 「どうしても君を愛せずにはいられない!」と、切々と訴えるが、彼女にジラサれる。

http://www.youtube.com/watch?v=x-Vcww2_h1o

 (9:59)万病の特効薬を売るイカサマ博士に、農夫はイゾルテが飲んだ「愛の妙薬」だと、だまされ、安物のワインの壺を手に入れる。 一口飲んで「素晴らしい!  僕は元気が出てきたぞ! 、、でも彼女から云い寄られるまで気をもませよう!」  そこへ軍曹が再び現れて、アディーナと明日結婚しようと云い寄る。 イライラする農夫。 三人はそれぞれの心境を歌う。

http://www.youtube.com/watch?v=T3ksUKV6jZ8

 (9:39)軍曹とアディーナの婚礼の場で、なぜか誓約をためらうアディーナ。 事態挽回を図る農夫ネモリーノは、さらに妙薬が欲しいがお金が無い。 仕方なく恋敵の軍曹の部隊に一兵卒として入隊、給料を前借して妙薬をもう一本購入して飲み干し、眠りこんでしまう。 一方アディーナを除く村娘の間で、農夫の伯父の巨額の遺産を 農夫ネモリーノが相続すると云う噂が広がり、村娘たちは玉の輿を夢見る。

http://www.youtube.com/watch?v=TxnNsjwdmjg

6 (9:52)酔いから醒めたネモリーノは、自分が村一番の人気者になっていて驚く。 これも、妙薬の効き目だ! と大喜び! 一方 アディーナは、自分も本当はネモリーノを恋していると悟り 彼に告白し、二人は村人たちに祝福され結婚。 ドゥルカマーラ大博士の 「愛の妙薬」 の効能を一同で称賛して幕が下りる。

 オペラ「愛の妙薬」切ってのアリア 『一筋の涙 』 は、パヴァロッティの最も得意とする名場面です。 

http://www.youtube.com/watch?v=5AEa8-B0bRE

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「パヴァロッティ・マイ・ワールド」 ご紹介

Photo  今年松の内も明けたころ、石戸谷結子著 「オペラ歌手はなぜモテるのか?」(文芸春秋1996年) を読んでいるうちに、いつの間にか敬愛するルチアーノ・パヴァロッティにすっかりのめり込んでしまいました。

 週一回のブログ投稿が、五ヶ月もパヴァロッティについて語ってしまったことは、正直わたし自身が驚いております。 これも自叙伝 「パヴァロッティ・マイ・ワールド」 (小学館)の恩恵によるものが大きく、ここに改めて本書のご紹介をさせて戴きたいと思います。

 アメリカのジャーナリスト、ウィリアム・ライトがパヴァロッティに直接語ってもらった様々なエピソードを、カニリカが訳し、白埼容子監修により1996年6月20日 小学館から初版第1刷発行されました。

 ウィリアム・ライトは、時には世界を駆け回るパヴァロッティを追い、またある一時期パヴァロッティと生活や行動を共にしながら、身辺出来事をパヴァロッティ自身の言葉で書き記しております。

Photo この画像 左が共著作者ウィリアム・ライト氏 右は秘書のニコレッタ・マントヴァーニさん                                        

 華やかなオペラ舞台の波瀾万丈の裏話、大らかな性格の根底には、神経質すぎるほどの健康管理、庶民的な温かい家庭でたっぷり過ぎるほどの愛情に包まれ、女性に囲まれ、ハーレムのような人生を、太陽の国イタリア人らしく語っております。   末娘ジュリアーナさんの病気に対する父親としての気遣い、一期一会の貧しい少年への温かなエピソードは、映画のひとコマのように思い浮かばせてくれるのです。

 すべてのエピソードから、人間らしい温もり漂うパヴァロッティの死が今更ながら惜しまれ、偲ばれ、この著書はファンにとっては見逃せません。

 五ヶ月に亘って 「パヴァロッティ・マイ・ワールド」 のほんの一部に触れてみました。 500ページにも亘る18章にも及ぶ様々な視点からなるエピソードは、歌手を目指す人にもさることながら、パヴァロッティを知らない人にも興味深い話題が満載です。 この本の最後に掲載されている見過ごす事ができない、監修白埼容子氏の解説に、1995年10月アメリカでの初出版でベストセラーとなり、その後の半年間の短い間にも、パヴァロッティの身辺に起きた個人的なゴシップなど興味がそそり、敢えてこの画像をとくとご覧になりながら、ご想像いただくくほかありません。

 私の真情としましては、パヴァロッティを語るのはここまでとして、晩年の 「悩めるパヴァロッティ」 のことは黙認したいと思います。

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パヴァロッティ最悪の出来事

 TVやラジオでパヴァロッティの歌を聞いて 随分と慰められた人は 世界中に何億人もいるのではないでしょうか。

 「憂鬱でみじめで自殺さえしたくなる! と云う人から 救われた! と手紙をもらった時こそ たまらなく嬉しく、問題を抱えている見ず知らずの人たちを、ほんの少しかも知れないが, 救ってあげられることは素晴らしいことだ!」 と、パヴァロッティは自叙伝に書いております。

 現に独り身の私も、あれこれ落ち込む時にはパヴァロッティの歌声にどんなにか救われたことでしょう!

 世紀の大テノール歌手パヴァロッティにも幾つかの不幸な出来事がありました。  オペラ歌手として成功し、金銭的な悩みが消え一安心すると、別の問題が山のように待ち構えている、、と云うのです。

 自叙伝 「パヴァロッティ・マイ・ワールド」 によれば、、、

 ’92年~93年 ミラノ・スカラ座での 「ドン・カルロ」 公演初日、アリアの大事なところでパヴァロッティ自慢の高音がひっくり返って、観客席からブーイングの嵐が浴びせられ、失敗した場面がTVで世界中に放映されてしまった事とか、以前このブログでも書いた 故郷モデナでの 「口パク事件」 の不幸な出来事なのですが、仕事の上でおきる問題は健康の問題と比べればそれほど重要なことではないと云っております。

 パヴァロッティの最悪の出来事とは、1984年に末娘ジュリアーナさんの原因不明の重病のことです。 この一年間にイタリア中の病院を訊ねましたが、原因不明のまま状態がひどく悪いのが分かりながら、ご夫妻は不安を募らせ、失望ばかりが深まり、ひどく取り乱しておりました。

 ’68年まだ駆け出しのパヴァロッティのサンフランシスコでのコンサートを聴きファンレターを贈った17才の少女。 彼女の父親が名医であったことが、一家に明るい兆しをもたらせました。

 そんなご縁で、ニューヨークの名医の執刀により手術は大成功でした。

 顔の筋肉がコントロールできなくなる神経系の珍しい 「強度の筋無力症」 の診断が下されたアメリカの医師に診断を仰ぐまでの失望感や、後遺症も無く家族全員が安堵の胸を撫で下ろすまでの苦悩の数々、取り乱す様子など、愛娘を思う父親の心情を赤裸々に語る場面など真に迫り、手に汗握ります。

 こう云う時ほど、健康でありさえすれば他に何もいらない! と誰でも思います。

 その後ジュリアーナさんは、健康を回復し、ますます美しく その気になればポピュラー歌手としても成功するかもしれないし、体験した物理療法を学んだり,

体育のインストラクタを目指したり、いろんな才能に恵まれ  お幸せそうです。

Photo  手術後、健康を取り戻した三女ジュリアーナさんと一緒にハンモックでくつろぐ父親パヴァロッティの笑顔は、ステージで歌い終えた満足感の笑顔とは異なる幸福感に充ち溢れる最高の笑顔です。

     ハンモックに転び綻ぶ父と娘と

     (ハンモックにまろびほころぶちちとこと)

     風薫る快癒に睦む父娘かな

     (かぜかほるかいゆにむつむおやこかな)

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一期一会 パヴァロッティの思い出

 その1

 世紀の大テノール パヴァロッティのことを 誰もが知っているわけではありません。

故郷イタリアにおいてもです。

1987年 PBCで放映のTV 「パヴァロッティ・リターンズ・トゥ・ナポリ」 の屋外場面を撮影する時、現場の準備ができるまでパヴァロッティは車の中で待機しておりました。 すでに噂が広まっていたらしく、車の周りには人だかりができておりました。

近くで10才にも満たない男の子が、飲み物の屋台の店番をしながら人混みを眺めておりました。 そのうち屋台から離れ、車の近くまでやってきてパヴァロッティに窓を開けて欲しいと仕草で云いました。 窓を開けると少年は「みんなが見ている貴方は一体だれなんですか?」 と聞いたのです。 「ルチアーノ・パヴァロッティだよ」  少年は「その名前は知っているべきですか?」 とでも言いたげに肩を揺すりました。 パヴァロッティは「テノールでオペラ歌手なんだ!」 

少年は「オペラの事は知らないよ!」   「三日後にこの町でコンサートをやるんだ。 私の招待客として観に来るかい?」  「うゥ~ん。 朝の八時から夜の九時まであの飲み物屋台で番をしなきゃならないんだ! 母さんの云いつけなんだ!」   パヴァロッティはますますこの少年が気に入って、母親を説得するから電話番号を教えて欲しいと、、、 しかし彼の家には電話が無く、近所の家の電話番号を教えてくれました。

 母親にその旨を話すと、礼儀正しく 「ご厚意は感謝しますが、彼がコンサートに行くことはできません。 他にこの屋台の番をする者がいないのです」

 パヴァロッティは説得につとめましたが、彼女の気持ちは変わりませんでした。

Photo_2 

その2

 パバロッティがメキシコ・シティで、黒塗りの立派なベンツを借りて、貧しい人たちが住む地域を走っていた時のこと、幼い少年がパンを売りに来ました。 物売りにしてはまだ幼すぎる5~6才の男の子の姿に心を打たれたと同時に、こんな幼い子に物売りをさせる! と云う怒りもこみあげてきました。

運転手に車を止めさせ、メキシコの通貨を少し受け取ると少年が車に近づいてきました。 パヴァロッティは窓を開けおカネを渡しパンを受け取りました。  少年はパヴァロッティを見ると驚いた顔をして、ゆっくりとつぶやきました。

     「パヴァロッティ!」

 「スタジアムを埋め尽くした観客席から大声で名前を呼ばれるのは気持ちがいいが、この貧しい衣服も顔も汚れた まだこんなに幼い少年が私を知っていてくれた事は何物にも代えがたい喜びでいっぱいだった!」

 この二つの一期一会の記事は、まるで映画のシーンのようで、思わず涙が頬を伝わります。 自叙伝「パヴァロッティ・マイ・ワールド」で大変な感銘を覚えた一編です。

     幼気な児に名を呼ばれ風薫る

     (いたいけなこになをよばれかぜかおる)

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天安門広場で自転車を乗り回すパヴァロッティ

 1986年、中国国務省文化部の招聘でパヴァロッティは二週間の滞在の為に、歌手、オーケストラ、コーラス、何人かのジャーナリスト、それに友人と母を除く家族など総勢300人と舞台装置、衣裳、2回のコンサートの為の音響装置、全員の荷物に加え、現地では手に入らない食糧(イタリアの町一つを一週間分養えるほど)、ミネラルウオーター1500本、ホテルの部屋で料理が作れる道具や冷蔵庫に加え、この旅行のドキュメンタリー映画を作るための二人のプロデューサー、スタッフ、撮影機材も一緒にボーイング747に積み込んで中国に渡ったのでした。

 出発前にはキャスト全員でローマに行き、法王に公演旅行の安全を祈祷して貰うほど、パヴァロッティは信心深いのです。

 「法王自ら賜るご加護に優る保険は無い!」 と。

 なにせ初めての中国入りのこと、真夏の熱気漂う空気も別世界だったそうで、中でも印象に残った北京の最初の風景は、物凄い数の自転車に圧倒されたのでした。 床に穴が開いているだけのトイレにもビックリ仰天したことは云うまでもありません。 

 「郷に入れば郷に従う事です。もし私が否定的な発言をすれば、同行の全員が文句を云い始めるだろう。 文化の違うところへ行けば私自身が文句を云わない事がたいせつです。 私たちがやろうとしている文化交流という目的の重要さに比べれば取るに足らない事!」 と。

 なんと素晴らしいアーティスト気質でしょう!

Photo_3  劇場にはエアコンが無く、とてつもない暑さと、汗かきの彼には大変な苦痛のようでした。 そんな中、誰かの差し入れで、手に持てるほどの電池式の小さな扇風機が、命を救ってくれた! と、この小さな扇風機の考案者に感激したのだそうです。

     パヴァロッティもはしゃぎ手中の扇風機

      (パヴァロッティもはしゃぎしゅちゅうのせんぷうき)

 公演の合間に、西洋人の耳に張りつめられ、不自然に聞こえる京劇にも、パヴァロッティは大変な興味を抱き、衝動的に自分にもやらせて欲しいと頼んだのです。 メイクアップをしてもらい、着付けをしてもらうまで4時間もかかろうとは知らなっかたが、いったん始めたからには後には引けません。 悪霊退治の守護神のような姿で舞台に出て、一場面を即興で演じました。 後日、撮影された映像を見たとき彼は、「どの歌手が自分なのか分からないほど物まねが上手かった!」  と、自画自賛。   自叙伝「マイ・ワールド」にもこの映像が見当たらないのは残念です。

 この旅のドキュメント映画の撮影中、製作者の注文で、撮影のためにパヴァロッティの動きが欲しいと云われ、体重は思いが、いつもベーサロの別荘で乗り回している自転車乗りを提案。 通りすがりの学生に自転車を借りて、天安門広場をぐるぐると回り、「あァ! 私は中国で自転車に乗っているんだ! わたしはうれしくて止める気もしなかった!」 と夢中で走り回ったのでした。

 国務院文化部の指示で、パヴァロッティの身の安全にも責任を持たされていた通訳ウー氏は、北京の町を自転車で走り回っているパヴァロッティを見て、引きつけを起こしそうになったそうです。

  少年のような髭面のおじさんの単独飛行!           ご無事でよかった~!

Photo_2  ベーサロの別荘で日課にしている自転車を楽しむこの写真を とくとご覧ください。  巨体をのせた自転車が今にもパンクしそうです。

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